武市瑞山夫人冨晩年の地

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梼原町

明治維新の土佐勤皇党の党首武市瑞山(半平太)は幕末、藩の命により自刃、享年三十七歳武市瑞山の妻武市冨さんの、内助の功はきわめて大なるものがあります。瑞山なき後、梼原大蔵谷明神秀吉の三男睦衛(ちかえ)を養子に迎え武市半太と改名しました。冨さんは養子一家と東京に住んでいました、その間時の皇后陛下に拝謁したり縮緬や金子を下賜されております冨さんは梼原に居を望み、半太兄・崎村青恵が病院を開業することに併せて、医師半太夫婦と共に冨さんは当屋敷に住みました。後高知市で病気療養中大正六年八十八歳で逝去しました。
(看板引用)

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