中平龍之助定確の墓

トップページ高知県の観光四国の河川高知の河川四万十川>中平龍之助定確の墓

(1842~1864)
父は佐平、母は登根、その長男として生まれ喜代次という。文久2年(1862)6月藩主について上京、さらに勅使東下のとき三条候について江戸に入り使命を終って一応帰国する。文久3年(1863)11月6日時事に感じて、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤真之助とともに宮野々の関門から脱藩。 散りてゆく秋の木の葉は朽ちるとも また来る春の恵みまたなむ  の一首を鎧櫃に入れて密かに遺書としたものである。本山勝八の変名で活動する。元治元年(1864)長州藩の志士たちとともに上京し、同志・松山深蔵とともに忠勇隊を組織して京に入り、越後、会津の兵と境町御門で戦うが、鷹司邸に突入の時会津藩の砲撃にあい重傷、同邸内にて自刃する。時、元治元年(1864)7月29日 年22才
(看板引用)

中平龍之助定確の墓

四国の観光へ戻る  四国の河川へ戻る 
高知の河川へ戻る  高知県の観光へ戻る
四万十川へ戻る