魚梁瀬

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魚梁瀬の由来

寿永四年(1185)三月二十四日平氏は長門の壇ノ浦で滅亡した、この時、能登守平教経は戦死したと正史には記されているが、伝説によると、戦場を遁れて魚梁瀬へ来り、奈半利川の上流の内、中川へ落着したが、さらに西川一ノ谷へ移住する事になった。後にそこが狭くなり、常に崇敬していた熊野神社に祈ってヤナを流し、その魚梁がかかったところに移住するようになったので、魚梁瀬という地名がおこったと伝えられる。伝説に祖谷の教経の住居を、狩人の姿をした、一人の旅人が訪い、一夜の宿を請うた、教経は不安ながらも狩人の要求に応じた、しかしその旅人の起居動作や言葉遣いなどから考えて、これは只者ではないと見てとった。教経は源氏のまわし者が、ここまで忍びこんでくるとすれば、祖谷に長く留まることは危険だと思い、家来たちを連れ、南方の山々を歩み、上阿国境の四国山脈を尾根ずたいに東南へ向かい、やっと高峰へたどりついた。山頂は長い間、風雪のため高い樹木もなく、北方を望むと、阿波の剣山が天空にそびえ、東は連山の彼方に太平洋の水平線が雲のようにかすかに見える、南方は樹木が、うっそうと茂った魚梁瀬林の山々が指呼の内に眺められ、その山々の中に丸い山がみえた。岩に腰をおろしていた教経は、しばらく、この雄大な大自然の景観にひたっ7ていると、家来が、「あの丸い山の下はわれわれの住居に良い処と存じます」と申し上げた、教経は、さっと金扇を開き満足そうに、「この森は、甚だ吉なり、さらば丸い山の下を住居と定めよう。」この祝言によりここを、「甚吉ヶ森」と名付けたと伝えられる。甚吉ヶ森は、海抜、422メートル、上阿国境の分水嶺で、安芸郡第一の高山である。教経主従の落武者は、やがて甚吉ヶ森を南へおり千本山を降って、奈半利川の上流中川へおりここを居住とした。しかし土地が狭いので、千本山を西へ越し、奥西川一ノ谷へ居を移し、川の西側の山麓を段々に開拓して居をかまえた。現在は、平成三年馬路村が高知営林局から買収し公園として整備されており、そこに自然石に、「能登守平教経一族屋鋪趾」と刻した記念碑が建っている。魚梁瀬は奈半利川の上流の小盆地で田地少なく、栗、稗、黍等を主食としていたが、後に大戸谷及び谷山から用水溝を設けて米作を行っていたが、明治後期に山林労務者が多数入りこんできたので又食料にこまり、徳島県宍喰方面から山越しに食物を運搬するようになり、やっと米食に変わったと言う。とにかく食料には不自由であった。(看板抜粋引用)

魚梁瀬

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