野中兼山生母

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本山町帰全山

夫人名は萬、姓は秋田氏、幼い時不幸にして孤児となった。性質明朗快活で、辛抱強く、裁縫などの技に長じた。24歳の時、浪人中の兼山の父 野中良明の妻となった。節約を守って家計を整えた夫人は、厳格な良明によく仕えた。良明のはじめの妻 荒尾氏は、子もなく若死にしたので、夫人は哀れに思い命日にはよく弔った。また長命の姑によく仕え、三年間の臥床にもかわりなく看病して人々を感心させた。
 夫人が33歳の時、良明は病死した。親戚の再婚の勧めを断った夫人は、貞節を貫いたのであった。夫人は兼山の他に男女各二人を生んだが、幼少の時死んだ。兼山を妊娠した時は飲食に注意して健康を保った。兼山の教育には特に注意し、公の秘密は妻にも語らなかったと良明の生前を兼山に話したが、兼山15歳の時、良明の遺品を渡して父の意思を継ぐようにと激励した。また兼山の性急の気質を戒め、あるいは兼山が朋友を招待する事を喜び、自分の持ち物を金に換えて準備を整えた。ある時、若者たちが争って刀傷に及んだと聞き、友人との交わりには特に注意し、父の名を汚してはならないと訓えた。
 兼山が22歳で、分家 野中直継の家を継いで土佐藩家老となった時、夫人は藩の御用を大切にし、同僚とは親密に、欲心を持つことなく、終始一貫勤勉に執務するよう訓戒した。また家庭の和合が一族繁栄に連なるとし、ことに野中家に仕える人々は慈しむよう望んだ。夫人はいつも控え目で、待女を激しく叱ったことはなく、珍しい食物があれば必ず分け与え、また裁縫など喜んで教えてやった。いつも待女たちに、怠けておいて急に物事をやってもうまくできない、平素が大事である。また人に注意することは、まず自分自身が行うことである口先だけでは人はけっして従うものではないと戒めた。
 夫人は姑の教えで仏教を信じたが、兼山が儒学を勧めた時、自分の子は兼山だけである。この意見に従おうと、儒学を敬信した。全く夫人は女性の模範である柯(山崎闇斎)が兼山と親しい朋友であった当時、夫人の部屋には「直信」の額があった。その人柄はこの通りである。
 夫人は天正14年丙戌(1586年)9月27日京都に生まれ、慶安4年辛卯(1651年)四月土佐の城下に没した。同年6月5日、城の東北七里兼山の所領長岡郡本山に葬られた。行年66歳、兼山は泣いて柯に夫人の墓表を書くようにと依頼した。文章も拙いが葬式の日も迫ったので、かねて聞いた夫人の生涯の大要を石に刻み、末尾の「銘」にまとめた。「銘」は、心ばえは従順で、婦徳を修め、柔和で正しく妻の道を守った。子を立派に育て上げ、無欲に身を処し、人には親切であり、事を処理しては行き届いた。人の生死はすべて天命である。土は肥え樹木の茂る本山の帰全山に、安らかに永眠されたい。悲しみを迎え、このような素晴らしい生涯を、後世に伝えるものである。(看板引用)

野中兼山生母の碑

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