谷丹三郎重遠の墓

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土佐山田町

国指定史跡
重遠は、号を秦山といいます。寛文3年(1663)3月11日、岡豊八幡(南国市)の神職の3男として生れました。17才のころ、山崎闇斎・浅見絅斎について朱子学・神道・国史などを学び、32才のとき渋川春海について、天文・暦学を学びました。そして、土佐南学を大成されました。45才のとき、六代目藩主のあとつぎ問題で無実の罪を受け、山田にちっ居させられました。しかし、天をうらまず、貧しさにたえながらも勉強一筋に励み、書物を書いたり、弟子たちにも、学問の教えを説きました。重遠の学問は、長男の垣守、孫の真潮にも受け継がれ、門下生からは、多くのりっぱな人材も出て勤皇運動にも大きな影響をあたえました。享保3年(1718)6月30日、56才でなくなりましたが「墓を大きくするのは、やがて家がほろびる」という谷家のいましめを守り、墓石も、しっそにしました。
(看板引用)

谷丹三郎重遠の墓

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