野中兼山一族の幽閉

高知の河川

トップページ高知県の観光四国の河川高知の河川松田川野中兼山一族の幽閉

宿毛市

野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪(堤防)を築いたり、沖ノ島や篠山でおきた国境争いを解決しました。しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。そしてその直後、四十九才で死去してしまいました。ところが、それでも反発の声はやみません。兼山の政治が土佐藩の人々を苦しめたといって、兼山の子供たちに、その罪を負わせることになったのです。親の罪が子にも及ぶ時代でした。兼山の子供八人は宿毛に送られ、今の宿毛小学校のプールの場所に幽閉されました。一番幼い貞四郎は、まだ二歳でした。竹で囲まれた家での外には出られない生活の間に、子供たちは成長し、そして次々に亡くなりました。四女の婉は、兄、姉を失う悲しみを和歌を詠みます。つらなりし 梅の立枝 枯れゆけば のこる梢の 涙なりけり「つらなる梅の立枝が枯れていくと、のこる小枝は涙を流すばかりだ。(梅の立枝…先立つ兄、姉  梢…残された弟や妹)」約40年という長い長い年月が過ぎ、男子の全員が亡くなると、寛、婉、将の三人の女子だけが、ようやく釈放されました。釈放された三人の内、婉は今の高知市朝倉に移って医者になったということです。この婉の生涯は、高知県出身の大原富枝の小説「婉という女」で紹介され、大きな反響を呼びました。現在宿毛には、婉と長女米以外の、幽閉された子供たちと母親の墓が残されています。
(看板引用)

野中兼山一族の幽閉

高知県の観光へ戻る  高知の河川へ戻る 
松田川へ戻る  野中兼山へ戻る