本山城跡

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本山町

田井山の東端近く、北に伸びた尾根の先端部を利用した中世の山城跡・詰の段・二の段・三の段と小さな郭一つが残るが、土塁などの遺構は残っていず、三の段西方部はかつて射的場として造成されたものである。。詰の段南下の尾根には幅20メートルの堀切が残っている。とさの戦国七雄の一本山氏の城であるが、築城年代ははっきりしない。本山氏の出自は、清和源氏吉良庶流の八木氏であるとも(「南路誌」ほか)、平氏であるとも(「土佐名家系譜」)、但馬(現兵庫県)国造八木氏とも(「本山城懐古史」)いうがいずれも決め手を欠く。平安時代の末に当地に入り吾橋庄の地頭職などをあしがかりとして成長した八木氏が、のちに地名にちなんで本山氏を名乗ったものであろう、戦国時代・養明次いで清茂(茂宗・梅慶・梅渓と号す)がでて、嶺北地方一帯に勢力をのばし、やがて南の高知平野に進出、土佐郡朝倉城(現高知市)を築いてここに移り、本山城は子の茂辰にゆだねた・朝倉城に拠った清茂は、天文年間(1532〜1555)現在の高知市域の支配を確立するとともに、機をみて荒倉山を越えて弘岡(現吾川郡春野町)に進出して吉良氏を滅ぼし、更に仁淀川を渡って高岡郡に兵を出した。こうして西は幡多郡中村(現中村市の一条氏、東は長岡郡岡豊(現南国市)の長宗我部氏と対峙することとなった。天文二十四年(1555)清茂が没し茂辰があとをついだが、永禄三年(1560)茂辰の家臣が長宗我部氏の兵糧船を襲ったことから、本山・長宗我部両氏の土佐中原をもぐる戦いが本格化し、吾川郡長浜(現高知市)の戦い・土佐郡朝倉の朝倉合戦を経て、長宗我部氏の圧迫に耐え切れなくなった茂辰は、永禄6年朝倉城をすてて本山に退いた、本山城は要害の地にあるとはいえ相次ぐ長宗我部氏の攻撃は本山家中に動揺と離叛をひきおこし、茂辰は城をすてて瓜生野に籠った、瓜生野での攻防の中茂辰は没し、子の親辰が防戦につとめたが、ついに長宗我部氏の軍門に降った、本山氏が長宗我部氏の配下に入った年については、はっきりしないが元亀元年(1570)とも元亀3年ともいわれている。

(看板引用)

本山城跡の碑

本山城跡へは、十二所神社の鳥居をすぎて看板をもとに、水路沿いに進むと墓地入口にも右下の様な看板があります。

十二所神社の鳥居  本山城跡の案内看板 
本山城跡への遊歩道  本山城跡への山道 

十二所神社の鳥居からは、本山城跡まで約20分程です。

本山城跡

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